想いを伝える桐箱
AB3C事例 印鑑事業のイノベーション
消えゆく印鑑
デジタルガバメント戦略をご存じだろうか。行政手続きを完全にデジタル化しようという取り組みだ。これが実現すれば、創業手続きなどもオンラインで済ませられるようになる。そのために、段階的な取り組みの一つとして、認証の電子化がすすめられている。行政手続きや銀行口座をつくるときに印鑑を不要にしよう、という取り組みだ。印鑑の押印などのアナログな手続きが残っていると、そこでオフラインの手続が必要になってしまうからだ。数年内にはほとんどの行政手続きで押印を不要にする方向で検討中、印鑑業界は存亡が危ぶまれている。
電子認証が普及しても売れる印鑑とは
そんなおり、相談に来られたのが創業126年、小林大伸堂(福井県鯖江市)の小林照明社長だ。印鑑が無くなることを視野に入れながらも、息子の稔明さんへの事業承継を考え、新しい事業を開発したい、というご相談だ。小林大伸堂が販売する印鑑は個人用から会社用、ゴム印から象牙の印鑑、はてはパワーストーンを材料として使った宝石印鑑と呼ばれるものまで幅広い。販売チャネルも、ECと、福井県鯖江市の実店舗がある。ECでは、ユーザーモデルごとにそれぞれサイトを分け、5つのサイトを運営していた。なかでも特徴的なのは、開運印鑑だ。開運印鑑とは、開運の願いを込めて作る印鑑で、縁起の良い画数に文字をアレンジしたり、書体を使ったりする。同じ開運印鑑でも、その価値の提示の仕方には大きな違いがある。開運効果を大きくうたい、場合によっては「印鑑を買い替えないと不幸になる」という脅しのような売り方をする人もいるらしい。一方で、小林大伸堂は、あくまで購入者、利用者が前向きな気持ちになれるように、というスタンスで販売しているそうだ。ウェブサイトや接客から伝わるそのポリシーが、信頼につながっているようだ。意外なのは、購入者の約半分は贈り物として購入されていることだ。シーンとしては、出産祝い、就職祝い、結婚祝いなど、両親や祖父母から、人生に一度のお祝いのシーンで贈るのだ。
同じような開運印鑑屋と比較して、小林大伸堂の強みはネットマーケティングだ。印鑑屋としては早期に通販を始めたこと、また社長ご自身が良く勉強をして、外部の専門家の支援も受けながらマーケティングにとリンクでいることで、Googleで「開運印鑑」と検索するとTOPに表示されるなど、集客も、ウェブサイトも印鑑業界の中ではうまく成果を出していた。
一般的な印鑑の購入シーンと、開運印鑑の購入シーンでAB3Cを比較してみよう。一般的な印鑑購入のシーンでは、銀行口座を作りたい、会社を登記したい、と思った人が、その手段として、認証に使う道具である印鑑を求めている。そのとき、求めているのは印鑑の品質やそこに込められた想い、開運効果ではなく、単純に価格と納期だろう。
開運印鑑の購入シーンではどうか。たんなる道具としての印鑑では物足りず、高価でも開運印鑑と呼ばれるものを選ぶわけだから、もっとも重要な価値は道具としての機能ではない。特に、出産祝いのシーンでは、実際に印鑑を使用するのは数年後、十数年後ということも少なくない。求めているのは、会社設立シーンなどであれば、自分の背中を押してくれる、という効果であり、出産祝いなどの贈り物であれば、生まれた赤ちゃんへの愛情、想いを伝えてくれる、という効果であろう。このとき、競合となる開運印鑑屋でも、程度の違いやニュアンスの違いはあれ、同じような効果を提供している。現時点ではネットマーケティングの優位性によって選ばれてはいるが、本質的には差が無い。「選ばれる理由」の強化が必要だ。
新規事業の開発にあたって、小林照明社長は一つのアイデアをお持ちだった。「私たちの印鑑を購入する人は、道具としての価値だけを購入しているのではない。そこに込められた、想いに価値がある。印鑑が無くなっても、この想いを他の商品に込めて売ることは出来ないか。」。たしかに、購入者の声を見てみると、「前向きになれた」、「思いを伝えられた」、「子供が本当に喜んでくれた」などの、本当に満足してくださっていると思われる感想が並ぶ。ここまで購入者を熱狂させるのは何なのか。印鑑には、たんなる認証道具としての価値だけではなく、他にも購入者を感動させる何らかの価値がある。その正体を理解するため、様々な調査分析と、話し合いを重ねる日々が3年続いた。
名前というアイデンティティに想いがこもる
分析の結果、感動を生むための要素がぼんやりと見えてきた。それは名前だ。かつて印鑑は自分の分身と言われることもあったそうだ。名前を刻印し、印影を残す。それが、自分が認めた、ということの証拠になるのだ。名前は、生まれたときに与えられ、死ぬまで変わらない、唯一無二のものだ。名前はまさにアイデンティティなのだ。そのアイデンティティを扱っているからこそ、印鑑にはその人自身を投影しやすく、想いを込めやすい。逆に言えば、印鑑でなくても、名前というアイデンティティを込められる商品であれば、他の商品でも同じように強い想いを込めることが出来るのではないか。
名印想ブランドの創出
印鑑購入者が感じる、たんなる認証道具としてではない、もう一つの価値、これを提供するためには3つの要素が必要だと考えた。「名前」、「想い」、「印」だ。「名前」は前述のように、使用者のアイデンティティだ。自分の名前が刻まれていることで、自分の分身としてのイメージを投影しやすい。贈答の場合でも、たとえば出産祝いで両親や祖父母から生まれたばかりの赤ん坊へのイメージを投影できる。「想い」は自分や、贈り先に強い想いを抱いていること。購入シーンが人生の節目であることや、贈答のシーンであれば、贈り主と贈り先の関係性の深さによる。そして三つめの「印」は、カスタムデザインという意味だ。何らかのオリジナル加工によって、その人のために、その時にために、という特別感が生まれる。
リブランディングにより、伝わる価値に
この3つの価値の一つでも欠けてはこの感動は生まれない。単なる道具としての印鑑ではない、感動を生むこの新しい価値を分かり易く伝えて行くために、新ブランド「名印想」を立ち上げた。
これまで開運印鑑として販売してきた自社の商品の価値を「名印想」という新しいブランドのもとに紹介し、より特別なシーン、特別な想いを伝えるための印鑑とした。 名印想というブランドの紹介サイトを立ち上げた。また、開運印鑑サイトのTOPページを、ギフトシーンに特化したイメージに変更し、5つのギフトシーンに合わせた提案ページを制作した。また、会社紹介ページも名印想のイメージに合わせて作り替えた。
接客もさらに改善した。想いを伝える、ということをより大切にするために、シーンや想いを聞くことを、とことんやるようにした。
その結果、購入数が約2倍になった。商品そのものは全く同じだが、これまで見えづらかった価値が、リブランディングによって伝わるようになった好例だろう。 (*このリニューアル期間中に、売り上げの4割を支えていた象牙のネット上での取引が事実上禁止になったため、平均購入額は下落し、売上は2倍にはなっていない。
AB3Cも大きく変わった。出産祝いのシーンに絞って考えてみよう。ベネフィットは孫の誕生を祝って、両親や、将来孫に喜んでもらいたい、ということだ。比較対象としては開運印鑑屋もあるだろうが、出産記念品とも比較するだろう。そのとき、小林大伸堂の名印想なら、想いを伝えることを大事にしていることが、ウェブサイトや接客から明らかに伝わるようになった。だからこそ、他社にお願いするよりも、より想いが伝わるだろう、という期待が持てるのだ。
名前に込めた想いを伝える
開運印鑑をギフトで作成するためには、お客様が誰に、どんなシーンで贈るのか、また印鑑にどのような想いを込めたいのかを詳しく聴く。名印想のコンセプトを作り上げたことで、「お客様の言葉を聞くのではなく、言葉にならない想いを聞く」という行動指針を打ち立て、より想いを深く聴くようにしたところ、お客様からさらに深い想いを聴くことができた。「ここまで深い想いがあるなら、メッセージカードに記載して一緒に届けることは出来ないか」と考えた。
中でも目立っていたのは、印鑑を出産祝いとして贈りたい、ご両親や祖父母などの名付け親の想いだ。命名に込めた想いを伝えたい、という方が多く、また意欲が強いことに気付いた。それならば、命名理由をうまく伝える工夫が出来ないかと考え、オプションとして命名書をつくり、提供することを考えた。しかしながら、命名書を飾るのは命名直後だけで、一般的には数日から数週間でしまってしまう。その想いを本人にも伝えるために、数年後、十数年後にも見てもらえる方法はないか、と考えた。そこで出てきたアイデアが、印鑑ケースに刻印する方法だ。
印鑑の保管方法
印鑑を購入すると、桐箱と、持ち運び用のプラスチックのケースがついていることが多い。この桐箱に命名理由を記した紙を入れて、赤ちゃんが大きくなるまで保管することを考えた。しかし、紙だと劣化するため、アルミ板に刻印するなど、素材の検討を重ねた。そこで生まれたアイデアが、桐箱そのものにメッセージを刻む方法だ。
これなら赤ちゃんが大きくなるまで劣化せずに見てもらうことができる。また、印鑑を贈る場合、通常はその関係性の近さから、多くは直接の手渡しであることが多いであろうと考えた。その点でも、この箱なら、見た瞬間に、受け取り手にも一瞬でその想いが伝わる。感動を演出するアイテムとしては最適だ。
命名理由入り桐箱のAB3C
この命名理由入りの桐箱にのAB3Cは以下のようになる。前回の3Cでは、商品そのものは従来のものと全く変わりなく、ウェブサイト上での表現で違いを分かり易く伝えただけだった。それでも、売上数が倍増するほどのインパクトがあった。しかし、今回は命名理由を刻印した桐箱によって、商品そのものの価値がかわり、より感動を生み、高める機能を持った。オンリーワンの商品にもとづく、より明確な選ばれる理由を作り上げた。
さらに次の段階がある。中身の印鑑なしで、この箱だけでも欲しい、という人が出てきた。一部の方にとっては、印鑑よりも箱の価値の方が大きいと感じられるということだ。そうなると、桐箱の中に印鑑ではなく、赤ちゃんのためのおもちゃや、文房具などを入れて販売することも出来る。その場合のAB3Cは以下のようになる。
さらに次の段階がある。中身の印鑑なしで、この箱だけでも欲しい、という人が出てきた。一部の方にとっては、印鑑よりも箱の価値の方が大きいと感じられるということだ。そうなると、桐箱の中に印鑑ではなく、赤ちゃんのためのおもちゃや、文房具などを入れて販売することも出来る。その場合のAB3Cは以下のようになる。
もともと小林大伸堂の依頼は、印鑑産業が無くなっても生き残るための新規事業の創出だった。命名理由を刻印した桐箱は、その可能性が見えてきた。